農業女子PJ SDGsへの
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2017.09.07

「私、農業女子PJに入りました。」第12回

by農業女子プロジェクト事務局

初めまして。鹿児島県鹿屋市で黒毛和牛の生産をしています、上別府美由紀です。

今回は、私が牛飼いになった経緯と牛飼いの楽しさを紹介します。

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私の実家は祖父の代から牛飼いで、小さな時から牛のお世話をすることが当たり前の生活でした。

よく祖父に連れられて子牛のセリ市を見学に行ったり、登校前に品評会牛の引き運動をしたりしていました。

地元の農業高校畜産科へ入学しましたが、卒業後は県外へ出て畜産とは違うことをしてみたいという思いから、横浜の短期大学(情報処理科)に進学しました。卒業間際になっても就職先が決まらず冬休みに実家に帰省していたときに、体調を崩していた祖父から「帰って来て牛飼いをしてほしい」「牛は楽しいし、これからは牛の時代だぞ!帰って来たほうがいい」と牛飼いになることを勧められ、「じいちゃんがそこまで言うなら帰って一緒に牛飼いするね!」って約束して横浜へ戻りました。その1週間後、祖父は私に「気張れよ!」と言葉を残し、亡くなりました。

卒業後すぐに帰郷し、実家の上別府種畜場に就職。周りの人たちに助けてもらいながら牛の血統や育て方など仕事を覚えました。一人で全国の市場巡りや、農家さんの見学をして、年齢・性別関係なく沢山の牛飼い仲間ができました。

就職して仕事にも慣れてきたころ、突然北海道から1人の女性が現れ、「第20平茂の子牛を1頭譲って欲しい!譲ってもらえるまでは帰れない!これから酪農を辞めて和牛を始める」と女性は言いました。その女性の熱意に圧倒されて子牛1頭を譲りました。

1年半後、「譲ってもらった牛が、お母さんになったから1度北海道へ遊びにおいで」と書かれた手紙がその女性から届き、飛行機のチケット同封されていました。早速北海道へ向かうと、その日は十勝の子牛市場の開催日。平茂の子牛を育ててくれた女性の牧場を見学をしてから市場へ向かいました。

長くなるので経緯は省きますが、次に家畜車に乗って青森の家畜市場へ向かいました。見たことのない血統の牛に戸惑いつつ、一緒に行った若い人たちが次々に子牛を競り落としていく勢いに後押しされ、輸送のことなども何も考えず、その時の貯金を全額下ろして私も1頭の子牛を落札しました。1週間かけ何とか鹿児島まで運搬しました。

自分の貯金で初めて落札した牛を自分の力で、自分の思うように育てたい!と思い、繁殖農家として独立、「鹿児島黒牛 美由紀牧場」を設立しました。当時、周囲に女性の経営者はいませんでしたが、不安よりも誰もやっていないことに挑戦できる喜びのほうが大きかったのを覚えています。

繁殖農家の仕事は種付けから分娩、子牛の体調管理など時間のかかる仕事ですが、牛1頭1頭にいろんなドラマがあって毎日がとても楽しいです。生まれてきた子牛を販売して終わりではなく、子牛を買ってくださった肥育農家さんがいかに飼いやすいかなど考えながら、できるだけストレスのかからないように育てています。最終的に消費者に食べてもらい、美味しい、幸せと言ってもらえるのが1番の喜びであり、やりがいです。

技術の進歩で畜産は昔のような力仕事ではなくなり、女性だけでもできる仕事です。

独立して12年。現在は、繁殖牛175頭、育成牛20頭、子牛125頭を、私と女性研修生1人、女性従業員1人、男性従業員1人の4人で子牛の成長を楽しみながら牛飼いをしています。

毎年、大学生の実習も女性限定で受け入れ、女性が生き生きと働ける牧場を目指しています。

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農業女子プロジェクトメンバーの皆さんと一緒に、これからの若い世代に農業の楽しさを伝え、農業に携わってくれる人が1人でも増えてくれると嬉しいです。日本の貴重な資源である和牛を、日本でいつまでも食べることができるよう、私は、これからも頑張ります。

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